札幌育ちLA帰り、異色のポッドキャスターが壮絶半生を告白

2025年11月13日

株式会社玄石代表の石井玄氏がパーソナリティを務めるポッドキャスト『滔々話』に、ビデオポッドキャスト『GOLDNRUSH PODCAST』のホストとして注目を集めるアイザック氏がゲスト出演した。

日本におけるビデオポッドキャストの第一人者とも称される彼が、ハリウッドスターを夢見た少年時代から現在に至るまでの、波乱に満ちた半生を赤裸々に語った。

札幌で過ごした少年時代とアメリカへの憧れ

1997年、北海道札幌市で生を受けたアイザック氏。カメルーン人の父と日本人の母というルーツを持ち、両親はアフリカのセネガルで出会い結婚したという国際的な家庭環境で育っている。

当時の札幌ではまだ珍しい存在であり、小学校時代にはいじめを経験したこともあったという。しかし、持ち前の明るい性格から友人に恵まれ、完全に孤立することはなかったと振り返る。

高校時代には、なんと生徒会長に就任。元々人前で話すことが好きだった彼は、学園祭の司会を務めるなど、当時からその片鱗を見せていたようだ。

そんな彼の原動力となっていたのは、小学生の頃から抱いていた「アメリカでハリウッドスターになる」という壮大な夢であった。

その夢を叶えるため、英語と国語の勉強に人一倍打ち込み、学年トップの成績を収めるほどだったと明かした。

夢破れ、映像作家へ…波乱のアメリカ生活

高校卒業後、長年の夢を叶えるべく18歳で単身渡米したアイザック氏は、ロサンゼルスのコミュニティカレッジへ進学。語学学校に通っていた最初の3ヶ月は、まさにアメリカの青春を謳歌する日々だったという。

毎日のように開かれるホームパーティーに参加し、人種の多様性に溢れる環境で「普通のその辺の人だみたいな。なんか初めてそういう感覚になって、それが超楽しかったっすね」と、日本で感じていた視線からの解放感を味わったと語る。

しかし、大きな挫折も経験することになった。

ある日、映画『インセプション』を観て主演のレオナルド・ディカプリオの演技に圧倒され、「俺レオナルド・ディカプリオに勝てなそうだなみたいに。こいつには勝てないって思って、でも映画監督だったら行けるかもって思って」と、俳優の夢を断念。

目標を映画監督へと切り替えたのだった。その後は、生活のために仲間と映像制作会社を設立。ヒップホップアーティストのMVなどを手掛け、アンダーグラウンドシーンで映像作家としてのキャリアをスタートさせた。

日本初のビデオポッドキャスト第一人者の誕生秘話

アメリカで映像制作の腕を磨いていたアイザック氏だったが、ビザの問題が壁となり、志半ばで帰国を決意。しかし、日本での再スタートも決して順風満帆ではなかった。

日本の映像業界特有の厳しい上下関係に馴染めず、フリーランスとして故郷・札幌で活動しようにも「意外に札幌ラッパーいない」という現実に直面。仕事がなく、収入ゼロという苦しい時期を過ごしたことを告白した。

そんな八方塞がりの状況で、新たな道を切り拓くきっかけとなったのがポッドキャストであった。

アメリカでは映像付きの「ビデオポッドキャスト」が主流であることを知っていた彼は、「これビデオつけたら、アメリカ方式でやっちゃったら行けるべみたいな」と閃き、自身の映像クリエイターとしての知名度を上げる宣伝ツールとして番組を開始。

これが、現在トップチャートにランクインするほどの人気を誇る『ゴールデンラッシュ・ポッドキャスト』の誕生秘話である。

石井氏も、単に番組で収益を上げるのではなく、自身の本業に繋げるという目的設定の確かさに感心しきりであった。

ハリウッドスターの夢から始まり、幾多の挫折と転身を経て辿り着いたビデオポッドキャストという舞台。

アイザック氏の異色のキャリアは、まさにアメリカンドリームならぬ「サッポロドリーム」の始まりを予感させるものとなった。

※この記事はPodcast番組をもとにAIを用いて自動生成されたもので、誤った情報や不完全な記述を含む可能性があります。正確性や品質は保証されませんので、必要に応じて他の情報もあわせてご参照ください。